なぜ、働いていると本が読めなくなるのか
「最近、本を読む余裕がなくて……」
働き始めてから、私はよく考える。
社会人になったら忙しいのは当然、だから本が読めなくなるのも自然なこと。
多くの人が、多分そう説明するだろう。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。
本当に「忙しいから」なのだろうか?
たしかに労働には時間も体力も奪われる。
けれど、それだけでは説明しきれない感覚がある。
むしろ、本を読もうとする意欲そのものが、
少しずつ削がれていくような気がしてならないのだ。
本を読むための精神の地盤が、失われている
本を読む行為というのは、情報を消費することではなく、
物語や思想に入り込むことだ。
ときには、考えが揺さぶられたり、自分の輪郭がぼやけたりもする。
そういう柔らかさを引き受ける時間は、ある種の準備が必要になる。
しかし、私たちが働く環境は、多くの場合その逆を求めてくる。
即断即決、効率化、目的志向。
感情や余白よりも、結論と成果が優先される。
このようなモードで1日を8時間以上過ごした後に、
「さあ、じっくりと人の思考に触れてみよう」という気分になれるだろうか。
難しい。
頭は動いていても、心が追いついてこない。
ページを開いても、言葉が入ってこない。
本を読む前に必要なものは、時間ではない。
それは「柔らかく考えられる場所」だ。
そして今、その場所を奪われているのではないか。
思考にも文脈のモードがある
たとえば、AIや資本主義、戦争や哲学について書かれた本を読むとき、
私たちは、疑う力や問い続ける姿勢が必要になる。
人文書とは、答えの出ない問題に向き合う本だ。
そして、そうした問いの多くは「正しさ」より「深さ」に価値が置かれている。
ところが、現代の労働ではその深さを思考するモードが抑制されやすい。
「それで、何が言いたいの?」「結論は?」「で、どうなるの?」
そんな言葉が飛び交う職場では、問い続ける姿勢は非効率と見なされる気がする。
だからこそ、仕事が終わったあとの思考は、問いを避ける方向に傾いていく。
むしろ、問われることから解放されたい気分。
疲れた自分を休ませるには、明快な答えとやさしい結論が欲しいと思ってしまう。
その結果として、深く考えるような読書から、無意識のうちに距離を置いてしまう。
人文学は「余白」を必要とする
よく、「人文的な思考は役に立たない」と言われる。
でも、それは、役に立つかどうかでしか物事を測れない環境に、私たちが慣れすぎてしまったからではないか。
人文学は、直接的な成果を求めない。
すぐに何かを決断するためのものではなく、
「立ち止まる」「わからないままでいる」「問いに留まる」といった、
非効率な作業を大事にしている。
そして、その立ち止まる力は、
本を読むときにこそ発揮されるものだ。
けれど今、私たちの生活にはその余白が失われている。
休むことすら、どこか「次の生産性のため」と結びつけてしまう。
読書も、どこか「アウトプットのためのインプット」として扱われてしまう。
その瞬間から、本は「考えるための道具」ではなく「効率の手段」になる。
つまり、読むことの本質が、少しずつすり減ってしまうと思う。
本を読むには、まず「戻ってくる」必要がある
だから私たちは、本を読めなくなったのではなく、
読める場所に戻ってこられないだけなのかもしれない。
疲れていても、本を開くことはできる。
時間がなくても、数ページなら読める。
でも「考えることを許してくれる状態」には、なかなか戻れない。
もし本を読めなくなったと感じるなら、
思考のモードが、社会のスピードについていけないのかもしれない。
必要なのは、意志でも時間でもない。
問いかけてもいいという感覚を、もう一度取り戻すこと。
そのために、まずは一冊の本を、
私は、ただ「わかろうとせずに」眺めてみようと思う。
本は、急かさない。
本は、私が戻ってくるのを待ってくれている。