「理解されない=価値がない」と思ってしまっていた以前の私

人々は理解できないことを、低く見積もる。

この言葉は、ドイツの詩人ゲーテによるものとされています。
日々の生活の中で、特に「働く」という行為の中に、この言葉の真意が深く潜んでいるように感じます。
なぜなら、職場や社会においても「理解されないこと」や「わかりにくい価値」が軽視されがちだからです。


たとえば、仕事で新しい提案をしたとき。
その内容自体がよく理解されないまま「現実的じゃない」「うちには合わない」と退けられた経験はありませんか?
それは、提案そのものの価値ではなく「わからない」という感情が拒否反応を引き起こしている場合が多いのです。
理解が追いつかないものに対して、私たちは無意識に、防衛的になる傾向があります。


この心理は、チーム内のコミュニケーションでもよく見られます。
Aさんの意見には皆が賛成するのに、Bさんの意見はスルーされる。その違いは何か?
多くの場合「誰が言ったか」や「その言い方・雰囲気」が、意見の価値を左右してしまっているように思えます。
伝え方が馴染まない、または言葉の背景が理解できないと、それだけで、正論が見過ごされてしまうことがあるのではないでしょうか?


そして「理解されない働き方」も、しばしば軽んじられます。
たとえば、副業やリモートワーク、あるいは個人事業主としての働き方。
会社勤めというスタンダードから外れると「それってちゃんと稼げるの?」「社会人として不安定じゃない?」といった声が飛んでくることもあります。
でも、それは、わからないから、低く見積もっているのではないのでしょうか?


さらに、成果が見えづらい仕事も、同様に低評価になりがちです。
保育、介護、看護、教育、あるいは社内の調整や事務作業など、直接的な利益に直結しない職種やタスク。
これらは「生産性が低い」と判断されがちですが、本当は人間社会の基盤を支えている極めて重要な働きです。
見えないから価値がないのではなく、見ようとしていないだけなのです。


私たちは今、個人の働き方も価値観も多様化する時代に生きています。
にもかかわらず、自分が理解できる範囲のものだけを評価し、理解不能なものを切り捨てるという姿勢は、世界を狭くしてしまいます。
それは、他者だけでなく、自分自身の可能性までも制限する行為です。


ゲーテの言葉は、私にはこう感じました。
「あなたは、他人のわからなさにどう向き合っているか?」
そして同時に、
「あなた自身がわかってもらえないとき、そのことにどう折り合いをつけているか?」
理解とは、時に一方通行の努力では叶わない。
でも、少なくとも知ろうとする姿勢が、対話と成長の第一歩になるはずと思います。


最後に、これは自分自身の働き方にも当てはまる話です。
「私はなぜこの仕事をしているのか?」「何に価値を感じているのか?」と、自分でさえ答えを出せない問いに出会うことがあります。
そんなとき、わからないからダメではなく、わからないままでも、進んでみるという姿勢が、新たな地平を開く鍵になるかもしれません。

わからないことの中にこそ、伸びしろがあり、可能性があり、人間の本質的な美しさが宿っている。

だからこそ、私たちは「理解できないもの」を、軽んじるのではなく、大切に扱える感性を持っていたいと思うのです。

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